「ただいまー…」
迎えてくれる人は誰もいないと分かっていても、俊希の口から出たのは帰宅を知らせる言葉。
もう半ば癖のようなもので、誰もいない部屋に向かってそう呟くのはいつものことであった。
ただ。
「おっかえりー」
最近、返事が返ってくることが少なくないことも、事実であった。
間延びしたような高い声が耳に届き、思わずびくりと体を震わせる。
…ここ最近は来てなかったのに、何で今日に限って。
俊希は心の中でため息をついた。
ぱたぱた、というスリッパの音が聞こえたかと思うと、目の前に現れたのは予想通りの人物。
「勝手に入るな、って何度言ったら分かるんだよ――――出夢。」
「ぎゃはははっ、僕がそんなこと守ると思う?」
と、出夢はいつものように笑った。
が、俊希の今の状態を見て、その笑顔は消えうせた。
両手に紙袋、更にもう1つ紙袋を抱えている俊希。
その中身はもう言うまでもないだろう。
今日は2月14日。バレンタインデーだ。
「へぇ…なんだよ人識、モッテモテじゃん。」
ほんの少し、心の中に湧き上がってきた感情を押し殺すように、出夢はいつもの調子で、若干皮肉を込めて言った。
「あ?俺はお前みたいな変態じゃなくてちゃんとフツーの奴にも人気なんだよ。」
俊希はそんな出夢の変化など露知らず、出夢と同じように若干の皮肉を込めて、軽い調子で答えた。
「僕みたいな可憐な女の子捕まえて変態なんてよく言えたね。それにしても…"零崎"を好きになるような奴がフツー、ねぇ。」
物好きがいるもんだね、と出夢は続けた。
「学校では一応優等生で通ってんからな。」
学校じゃあくまで"汀目俊希"だからな、と俊希は笑った。
「どこの世界に顔に刺青した優等生がいるんだよ。」
「ここにいんじゃねぇか。しっかし、今年は大漁だなー…やっぱり、中学最後の年だからか?手紙ついてんのばっかだな。呼び出しもやけに多かったし…」
片手で紙袋を抱え、片手で包みに手を伸ばしながら、俊希は言った。
「集団リンチ?人識、そんなに周りから怨み買ってんだー…かなり予想つくけど。」
「バーカ、バレンタインに集団リンチするやつがどこにいんだよ。告白だろ、どーせ。まぁ面倒だったし行かなかったけどな。」
なんてことないように、俊希は言った。
実際、彼女たちの気持ちを無視することなど、何とも思っていないのだろう。
出夢の横をすり抜けて、俊希はリビングへと歩いていった。
それを見て、出夢も踵を返して俊希の後を追った。
「ま、人識なら集団リンチだろうと全員解体しちゃうんだろうけどさ。…へぇ、可愛い可愛い女の子たちの気持ち踏みにじったんだ?」
「バレンタインなんざ甘いものもらえりゃ充分なんだよ。年に1度、タダでチョコを大漁にもらえる日を見逃す手はねぇだろ?」
両手に持った袋をテーブルに置きながら、俊希は言う。
「うわ、サイッテーだな」
その言葉を聞いて、けらけら、と出夢は笑った。
笑いながら、自分の服のポケットに入っている包みを、奥へと押し込んだ。
心の中に広がるもやもやとした気持ち。イライラするような、何か黒いものが渦巻くような、そんな気持ち。
――――こんな気持ち、今まで味わったことはなかった。
本当は、チョコを渡すつもりでここに来たのだ。
別に特に深い意味はない。
特訓も何もなしで会いに来て、チョコを渡してみたら人識がどんな反応をするか見てみたくて、何となくやって来たのだ。
なのに、何故か落ち着かない。
今、ここでチョコを渡してしまったら、人識の周りにいる女たちと同等に成り下がってしまう気がして。
ポケットの中にあるチョコに、手を伸ばせずにいた。
「あ、そういや出夢」
と、貰ってきたお菓子をテーブルに並べながら、思い出したように俊希が口を開いた。
「お前、なんでここに来たんだ?」
「っ……!」
その一言で、何かが切れて。
ポケットの中のチョコレートを、人識めがけて投げつけた。
「今日が何の日か分かってんだろっ…!?」
出夢の言葉を聞き、俊希は顔に当たる直前で受け止めた物体を出夢の顔と交互に見つめた。
「まさか…チョコレー…ト?」
「…僕がバレンタインにチョコ渡しちゃ悪い?」
明らかに不貞腐れたような、不機嫌さを前面に押し出した声で出夢は言った。
「いや、そういう訳じゃねーんだけど…正直、お前からもらえると思ってなかったから…つーかお前、前に『僕は基本的にもらう方だから』とか言ってたじゃねーか…」
そう聞いたのは1ヶ月ほど前、バレンタイン商戦に勤しむ菓子店の前を二人で通ったときであった。
お菓子業界の陰謀に見事嵌った日本人を笑いつつ、二人で普段手をつけられないような高級チョコの試食に片っ端から手を伸ばしていた時に、出夢は確かにそう言っていた。
その筈なのに。
「だからって、あげないとは言ってないじゃん」
出夢はむくれたように、言った。
お前それは屁理屈だろ…と俊希は心の中で思ったが、これ以上出夢を怒らせるのも何なのであえて口に出さないでおいた。
「そうは言ったってお前、あれは俺にチョコよこせって言ってるように聞こえたし…」
だから貰えるなんてこれっぽっちもおもってなかったんだよ、と俊希は呟くように言った。
「…。ふーんへーぇそうなんだ……」
「な、なんだよ…」
急に納得したような、上機嫌になったような、にやにやと笑みを浮かべだした出夢を見て俊希は怪訝そうに眉をひそめた。
「つまり人識は僕からチョコ貰いたかったんだ?」
「んな訳…!!」
つい声を張り上げる。
別に、まるで出夢がチョコをくれないと取れるような発言を聞いたとき、がっかりしたりした訳じゃない。
出夢がチョコをくれるなんて想像もつかなかったからだ。
ただ、今現在こうやって実際にチョコを貰って。
…嬉しくない、ことはなかった。
「へーぇ、僕って愛されてるなぁ。人識、顔赤いじゃん」
「うるせぇ!」
さっきまではお前だって赤くなってた癖に。
相手に聞こえないように、俊希は小さく呟いた。
「…あ、てかこのマフィンおいしそうじゃん。いっただきー」
「てめ、それは俺のだっつーの!…お前がいると半分以上食われる気がしたんだよな……」
今日出夢がいるのを見た瞬間に俊希が抱いたその心配は、どうやら杞憂では終わらなそうだ。
「ぎゃはは、僕のモノは僕のモノ。人識のモノも僕のモノ〜」
「お前はどこのジャイアンだ!」
ぎゃぁぎゃぁと言い争っているうちに、どんどんと減っていくお菓子たち。
……まぁ、これで出夢の機嫌が直るなら安いモンか、と俊希は小さく笑った。
――――数十分後。
「あ、ホワイトデーは30倍返しだから」
部屋を出て行く時、語尾にハートがつきそうな笑顔で言われた出夢の言葉に、その後1ヶ月間、俊希は頭を抱えることになる。
End
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07.02.14 水霸